子供の喘息がきっかけで脱サラ、気が付いたら20年。心と身体を回復させるアイテム「温」「緩」「巡」の日々をつらつら書きたいと思います。
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震災の次の日から現地にいきたかったが、三ヶ月たったいま、ようやくいくことができた。

理由は、まずは忘れないため。僕は目でみたもの、経験したものしか信じられない。(なんとなく写真掲載はやめます)

もうひとつは現地の状況をみたとき自分は何を感じるのか知りたかった。

その結論は、

無力。

そして

自分は幸せものだ…。

だった。


そろそろ現地だと想いつつ車を走らていても、景色は地震による倒壊とかはでなく緑豊かなきれいな風景が流れていた。

スーパーもパチンコ屋も営業していて全く持って普通。人が少ないのは元々そうなのかな?という感じもあったが、そこから少し海側に走って目にしたものは、広大に干上がった土地に点々と散らばった瓦礫と呼ばれる人々の大切な財産だった。

子供が蟻の行列を一瞬にして崩壊させてしまうように、自然はいとも簡単にそれをやったように見えた。これが北に向かって500キロも続いているというのか。
津波が来た境界線は明らかにわかった。
その境界線から海側と陸側は異常と日常。

至るところに花が添えられていた。

目にしたものはテレビでみたものと同じだが、そこに匂いが加わるとさらにリアルさが増す。
匂いは最も記憶と直結しているとも聞く。

政治家たちも現状を視察しているはずだが、その上でのあの言動、行動なのかと思うと悲しすぎる…

いまできることって、それなのか?


無力といえば、あらかじめボランティアセンターに電話をして整体のボランティアはありますか?と問い合わせて、では○○病院においでください、○○先生が面接しますのでと告げられていたので向かった。

しかし、結果は僕のような民間療法士は実績があろうがなかろうがまったく相手にされなかった。

まぁ仕方ない、社会的な立場としてずっと受けてきた待遇だ、いまさら腹も立たない。
現場が求めるボランティアに僕がなれなかっただけのだ。瓦礫処理参加には時間が遅かった。

その後、南下して原発による30キロ避難指定の境界まで走った。

近辺はやはり人の気配は少ないが、ヤクルトおばさんがマスクなしで三輪スクーターで走っているし、おっちゃんたちも農作業をしている。

ラジオや夕方立ち寄った極楽湯のテレビニュースでは降水確率のように福島県内各地の放射線量の異常値を流している。

そんなマスコミで大騒ぎしていることとは裏腹に周囲の住民の方は淡々と生きておられるのを見て、埼玉の原発避難区域の避難所で整体ボランティアをしたときに聞いた「とにかく家に帰りたい」を思い出す。

30キロという境界線だけで隔てられる日常と異常。

今回、境界線というのがポイントだった。いままで運よくいろんな境界線の日常側で生きてこれた自分は本当に幸せだと思う。

いろんな日常が一日も早く元に戻ってほしい。
そのため、微力ながら何かを続けていきたいと思う。

そしてなにより日々変わらず送れる生活に感謝します。




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